2006年3月28日火曜日

Ne lassatok meg / Ady Endre



金色のマントなどいらない、
ダイヤの王冠もいらない、
陽気に鳴り響く道化師の帽子も、
色鮮やかなマントも、ぼくにはいらない。

ぼくは灰色の世界の王様、
見えない王座が輝いている。
だれにも気づかれず、飾られもせず、
王に祭り上げられたりしなければ、ぼくは王様。

2006年3月16日木曜日

On Being Blue / William H Gas



私たちが欲望の源に近づくときは、常にこういうふうなのだ。リルケが述べたように、愛にとっては、感覚を次第に短縮することが必要である。私は君を何マイルも先から見ることができる。君の声を数ブロック先から聞くことができる。たぶん数フィート先から君の匂いを嗅ぐことができるが、しかし、接触したときだけ触わることができる。貪り食うときに味わえる。そして、私たちが混じりあうとき、視力ーーー至高の感覚であり、概念の主要な内容である視力ーーーがぼやける。リルケは次のように書いた。「自分の感覚の共同作業を頼みにしているということが、まさに恋をする者にとっての大きな危険にほかならぬ。彼の諸感覚はただ、あの危険な唯一の中心点において出会うにすぎないのだということを、恋する人は知っているのだが、その中心点で、感覚は一切の広がりを捨てて合流するので、永続するものは何もないのである。」

懐中電燈を肌におしつけるぐらいならば、いっそ消したほうがよい。芸術は、電燈と同様に距離を必要とする。性体験を直接に描き出そうとこころみる者が対決しなければならないのは次の事実である。すなわち、性的体験をつくりあげている身もだえは、その想像上の内容がなければ滑稽であるということ。その内容の強烈さはすみやかにその見せかけの原因を追い抜くということ。その体験全体は結局は明確に表現できなくなるということ。そのなかに進みこんでいった一流の芸術作品はないということである。