2006年7月25日火曜日

Les Jeux Et Les Hommes / Roger Caillois



近代社会は、その原理にもとづき、またしだいにその制度によっても、出生や遺伝の領域、すなわち偶然の領域をせばめ、規則のある競争の領域、すなわち能力の領域をひろげる傾向を持つ。こうした進化は、人材を十分活用するという公正を、合理性を、必要性を共に満足させるのである。政治的改革者たちがより公正な競合を考えつき、その実現を急ごうと絶えずつとめるのは、そのためなのだ。しかし、彼らのそうした活動の結論はお粗末で、人を失望させ、時に迂遠で、非現実的に思える。

さしあたり、思慮分別のできる年齢になると、誰しもが時期はもう遅く、賭けは終わったとかんたんに納得する。みな、それぞれの条件の中に閉じこめられてしまうのだ。能力を発揮することにより条件を改良はできようが、そこから脱出はできない。多少の改良は、生活水準を根底的に変えはしないのである。そこで、近道や短絡を求める気持ちがでてくる。他のやりかたに比べればかなり思いがけない成功を与えてくれるものにあこがれる。この気持ちは、くじで満たすほかはない。労働や地位は、そういうあこがれについては無力だから。

賭けるということ、それは、労働を、忍耐を、倹約を放棄することだ。もし運ということがなければ、また部分的にはまさに運の管轄である投機に走らなければ、労働と窮乏とのくたびれ果てた生活ではけっして得られないだけのものを、幸運は瞬く間に与えてくれる。賞金は、人の気をより惹くために、少なくとも最高賞の額は引き上げねばならない。逆に、富くじの札の方はなるたけ安価な方が良く、また安直に賭けたがっている多数の大衆まで届くように分売可能にしておく方がよい。ということは、莫大な金額をもうけた人は稀ということになる。だが、それが何であろう。最幸運者の手に転がりこむ金は、だからこそ、いっそう眩く見えるのだ。