2006年11月9日木曜日

Parerga Und Paralipomena / Arthur Schopenhauer



あたかも小河が何の障碍にも出会わない限りは渦をなさないように、我々も我々の意志通りに動いているすべてのものには余り気もつかず注意もしない、というのが人間並びに動物本来の姿である。もしも我々が何かに気づくことがあるとすれば、それは即ち我々の意志通りにいっていないことがある証拠で、何らかの障碍につきあたっているに違いないのである。ーーーところが、我々の意志に逆い、それを妨害し、それに対抗しているような一切のもの、即ち不快で苦痛な一切のものは、我々はこれを直接に即座にそして極めて明瞭に感ずる。ちょうど我々が身体全体の健康は感じないで、靴ずれのする小さな個所が気になるといった具合に、我々はまた完全に旨くいっている事柄全体のことは考えないで、我々を不快にする何かしらほんの小さなことを気にするのである。ーーー私がしばしば苦痛の積極性に対立する安楽と幸福の消極性を力説してきたゆえんもまたここに存するのである。

善とは、即ち一切の幸福と一切の満足とは、消極的なものである。換言すれば、それは単に欲求が静まり苦痛が熄んでいるということにすぎないのである。