2005年7月12日火曜日

天使 / 田村隆一



ひとつの沈黙がうまれるのは
われわれの頭上で
天使が「時」をさえぎるからだ

二十時三十分青森発 北斗三等寝台車
せまいベッドで眼をひらいている沈黙は
どんな天使がおれの「時」をさえぎったのか

窓の外 石狩平野から
関東平野につづく闇のなかの
あの孤独な何千万の灯をあつめてみても
おれには
おれの天使の顔を見ることができない

2005年7月10日日曜日

Definitions / Alain



苦悩 Angoisse




息も止まるほどの極度の注意から出てくるもの。結果を意識すると、さらにひどくなる。苦悩を解決する方法は動物のように呼吸することである。苦悩はため息である。





2005年7月9日土曜日

Something In The Way / Nirvana


橋の下に仕掛けた罠には
大きな穴が空いている
罠にかかった動物は
みんなぼくのペットになる
ぼくは草を食べて生きている
天井からしたたり落ちる水を飲んで生きている
でも魚を食べるのはかまわない
魚には感情なんてないのだから

何かがひっかかる
何かがひっかかる
何かがひっかかる
何かがひっかかる
何かがひっかかる
何かがひっかかる

2005年7月8日金曜日

ねむれ巴里 / 金子光晴



すこし厚い敷蒲団ぐらいの高さしかないフランスのベッドに、からだすっぽりと埋もれて眠っているわれら同様のエトランジェたちに、僕としては、ただ眠れと言うより他のことばがない。パリは、よい夢をみるところではない。パリよ、眠れ、で、その眠りのなかに丸くなって犬ころのようにまたねむっていれば、それでいいのだ。





2005年7月7日木曜日

一億三千万人のための小説教室 / 高橋源一郎



「生徒のみなさんへ。

 天気がいいので、ちょっと散歩してきます。
 その間に、あなたの小説を書いておいてください。
 書き終えたら、机の上に置いて、そのまま、家に帰ってもかまいません。詳しい感想は、あとで、手紙で送ります。

 プレゼントを一つ。
 最初の行をどう書いていいか、わからなかったら、こういうのはどうでしょう。

 「ハッピー・バースデイ」僕の父がいった。
 彼は外套のポケットから一冊の本を取り出して僕に渡した。

 その出だしは、この前、読んだって?

 いいではありませんか。書きはじめる時には、だれだって肩に力が入るのです。だったら、そこだけ、他人の力を借りても。書き終わってから、感謝をこめて、借りた出だしを直して、返せば、なんの問題もありません。

 早く読んでみたいな、あなたたちの小説を。」

2005年7月5日火曜日

Mexicans Begin Jogging / Gary Soto



工場で、ぼくは働いていた
ゴムの破片にまみれ、黄色い炎をあげる
釜戸の熱に身をかがめながら。
するとワゴン車から国境警備隊が飛び出してきた。
工場長は腕を振って「逃げろ」とぼくたちに合図、
「ソト、フェンスをよじ登るんだ」とどなるので
アメリカ市民ですよ、ってぼくは大声で言い返す。
「バカヤロ!冗談言ってるときかぁ」と言って、
ぼくの手に一ドル札を握らせて、
裏口へ急きたてた。

上司の命令ではしょうがない、ぼくは走り出し
逃げるメキシコ人たちの最後尾でおとりになったーーー
道ばたに驚いた通行人たちがズラリと並んでいたっけ
人垣がピンボケ写真のように遠ざかり、雨が降り出した。
工場街をぬけて、閑静な
住宅街へ出ると、急変した秋の空模様に顔色を失った面々。
ぼくはベースボールとかミルクセーキとか社会学者に向かって、「万歳!」と叫ばずにはいられなかった。
だって彼らがタイムカードでぼくを測定してるあいだに、
こっちは来世紀に向けてジョギングをはじめたのだから、
何か、とてつもなくアホっぽい笑みを顔に浮かべて、ね。

2005年7月4日月曜日

Definitions / Alain



愛 AMOUR




この言葉は一つの情念と同時に、一つの感情を示している。愛の始まりは、そして愛を感じるたびに、それはいつも、一種の歓喜である。しかも一人の人間が今いることと、あるいはその追憶と深くかかわっている歓喜である。人はこの歓喜に、不安を感じることがある。いつもちょっと感じている。なぜなら、この歓喜は他者に依存しているから。少し考えただけでもあの恐怖、一人の人間がその思いのままにわれわれを、幸福でいっぱいにすることができ、われわれからすべての幸福を取り上げることができることから起こってくる恐怖が、増大する。そこから、われわれは愚かにも、今度はこの人間に対して権力を揮おうとするようになる。彼が彼自身の側で感じている情念の運動は、必然的に、相手の状況をいっそう不確実なものにしてしまう。しるしの交換は、ついに一種の狂気にいたる。そこに含まれるのは、憎しみであり、この憎しみの後悔、愛の後悔、要するに無数の常軌を逸した思考と行動である。結婚と子供とが、この興奮状態を終わらせる。いずれにせよ愛する勇気は、忠実であろうと、すなわち、疑いのなかでも好意的に判断し、愛する対象のなかに新しい美点を発見し、自分自身をこの対象にふさわしくしようと多少とも明白に誓うことによって、われわれをこの哀れむべき情念の状態から引き出してくれるのである。この愛こそ真実の愛であって、それは人の知るように、肉体から魂へと高まり、否、魂を生み出し、それを愛自身の魔法によって不死のものにするのである。





2005年7月2日土曜日

Terre des hommes / Antoine de Saint-Exupery



ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目の当たりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこそこに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。


あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭しているかもしれなかった。またかしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなものも認められた。しかしまた他方、これら生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。


努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。





2005年7月1日金曜日

Woman, Native, Other / Trinh T. Minh-ha



<わたし>は信じさせられていた
書く人は、踊っているのだと
けれども踊る人は(書くときのように)
書いたりしない
書く人も(踊るようには)
踊りはしない
書いているあいだは、前屈みに
前屈みになって、精を出し
背中を丸めて、座り込み
背筋を伸ばして立つことも
仰向けになって寝ることもない
書いているあいだも、歩いたり
スキップしたり、走ったり
物を食べたり
する振りして
自由に飛べると思っていても
それはただ、
行/線を行/線と思わず
柵を柵と見ることなく
監獄の庭に気付かずに
鳥籠のなかにいる自由にすぎない