ひとつの沈黙がうまれるのは
われわれの頭上で
天使が「時」をさえぎるからだ
二十時三十分青森発 北斗三等寝台車
せまいベッドで眼をひらいている沈黙は
どんな天使がおれの「時」をさえぎったのか
窓の外 石狩平野から
関東平野につづく闇のなかの
あの孤独な何千万の灯をあつめてみても
おれには
おれの天使の顔を見ることができない
苦悩 Angoisse
息も止まるほどの極度の注意から出てくるもの。結果を意識すると、さらにひどくなる。苦悩を解決する方法は動物のように呼吸することである。苦悩はため息である。
すこし厚い敷蒲団ぐらいの高さしかないフランスのベッドに、からだすっぽりと埋もれて眠っているわれら同様のエトランジェたちに、僕としては、ただ眠れと言うより他のことばがない。パリは、よい夢をみるところではない。パリよ、眠れ、で、その眠りのなかに丸くなって犬ころのようにまたねむっていれば、それでいいのだ。
愛 AMOUR
この言葉は一つの情念と同時に、一つの感情を示している。愛の始まりは、そして愛を感じるたびに、それはいつも、一種の歓喜である。しかも一人の人間が今いることと、あるいはその追憶と深くかかわっている歓喜である。人はこの歓喜に、不安を感じることがある。いつもちょっと感じている。なぜなら、この歓喜は他者に依存しているから。少し考えただけでもあの恐怖、一人の人間がその思いのままにわれわれを、幸福でいっぱいにすることができ、われわれからすべての幸福を取り上げることができることから起こってくる恐怖が、増大する。そこから、われわれは愚かにも、今度はこの人間に対して権力を揮おうとするようになる。彼が彼自身の側で感じている情念の運動は、必然的に、相手の状況をいっそう不確実なものにしてしまう。しるしの交換は、ついに一種の狂気にいたる。そこに含まれるのは、憎しみであり、この憎しみの後悔、愛の後悔、要するに無数の常軌を逸した思考と行動である。結婚と子供とが、この興奮状態を終わらせる。いずれにせよ愛する勇気は、忠実であろうと、すなわち、疑いのなかでも好意的に判断し、愛する対象のなかに新しい美点を発見し、自分自身をこの対象にふさわしくしようと多少とも明白に誓うことによって、われわれをこの哀れむべき情念の状態から引き出してくれるのである。この愛こそ真実の愛であって、それは人の知るように、肉体から魂へと高まり、否、魂を生み出し、それを愛自身の魔法によって不死のものにするのである。
ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目の当たりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこそこに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。
あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた。あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭しているかもしれなかった。またかしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなものも認められた。しかしまた他方、これら生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう……。
努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。