2005年9月14日水曜日

La Mort / Vladimir Jankelevitch



生者は、死ぬ運命という条件でのみ生者だ。そして、生きていないものは死なないというのもたしかに真実だが、それは死なないものは生きていないからだ。岩は死なない。布製の花はけっしてしおれない。だが、また、布製の花あるいは一つの岩の永遠の生、そのような生は永遠の死だ。というのは、死ぬものしか生者ではないのだから。あるいは、ジャン・ヴァールが言うように、生きているものとは死ぬことのできるものだ。死ななくては、生は生きる価値がないことだろう。死のない生に呪いあれ。エピクテートスは言う。『死なないことは呪いだ』。恒久的持続、限りなく引き延ばされた実存は、ある点では呪いの最も典型的な形であろう。というのは、地獄で被造物は恒存的不眠と終わることない倦怠という刑罰に処されているのだから。地獄とは、死ぬことのできないことだ。そこで、われわれは有限性における充全性と非存在における永遠とのいずれかを選ばねばならない。

どちらがよいのだろう。庭に咲くはかない生花か、標本となった乾いた永遠の花か。




2005年9月10日土曜日

通夜の客 / 高橋源一郎



ぼくは弟と交代で母の亡骸の横で仮眠をとることにした。うつらうつらしていると呼び鈴が鳴った。慌てて玄関に出ていくと喪服を着た紳士がふたりいてこの度はご愁傷さまでぜひお線香の一本もとおっしゃった。よく見るとビング・クロスビーと森進一だ。いくら母がファンで一晩中CDラジカセでふたりの曲ばかり流しているといってこんな夢を見るとは。そうは思ったがせっかく来ていただいたのに追い返すには忍びない。ありがとうございます母も喜びますとさっそく柩のおいてある部屋に案内した。ふたりは蓋をとって代わる代わる母の顔を眺めるとなまんだぶなまんだぶと手を合わせセツコさん(母の名)あんた早く逝きすぎたよといった。もしかしたらこのふたりのどちらかがぼくのほんとうの父親ではないのか。そう思うと胸の奥がざわめき目まいがした。また呼び鈴が鳴ったので玄関へ行くと目を泣きはらした森雅之(?)とシャルル・ボワイエとジャン・マレー(たぶん)が喪服を着て立っていた。なるほど若いころ母は美男の俳優が好きだったんだな。ご苦労さまですといったところで突然涙が出そうになった。夢の中でのことだけれど。





2005年9月8日木曜日

一本道 / 友部正人



ふと後ろをふり返ると
そこには夕焼けがありました
本当に何年ぶりのこと
そこには夕焼けがありました
あれからどの位たったのか
あれからどの位たったのか

ひとつ足を踏み出すごとに
影は後ろに伸びていきます
悲しい毒ははるかな海を染め
今日も一日が終わろうとしています
しんせい一箱分の一日を
指でひねってごみ箱の中

僕は今、阿佐ヶ谷の駅に立ち
電車を待っているところ
何もなかった事にしましょうと
今日も日が暮れました

ああ 中央線よ空を飛んで
あの娘の胸に突き刺され

どこに行くのかこの一本道
西も東もわからない
行けども行けども見知らぬ街で
これが東京というものかしら

たずねてみても誰も答えちゃくれない
だから僕ももう聞かないよ

お銚子のすき間からのぞいてみると
そこには幸せがありました
幸せはホッペタを寄せあって
二人お酒をのんでました
その時月が話しかけます
もうすぐ夜が明けますよ