2006年1月30日月曜日

Le Suicide / Emile Durkheim



どんな生物も、その欲求が十分に手段と適合していないかぎり幸福ではありえないし、また生きることもできない。それに反して、もしも欲求が、手段の上で許容されるもの以上を求めたり、あるいはたんにその手段とかかわりのないものを求めたりするならば、欲求は、たえず裏切られ、苦痛なしには機能しえないであろう。ところで、つねに苦痛をともなう行動は、くりかえし行われないのがふつうである。十分に満たされない傾向は萎縮するが、生きるという傾向は他のすべての傾向の総体であるから、もし他の傾向が弱まれば、生きるという傾向も弱まらざるをえない。

欲求がたんに個人だけにもとづいているかぎり、けっきょく、それは規制しているいっさいの外部的な力をとりさってしまえば、それ自体では、なにものも埋めることのできない底なしの深淵である。

そうであるとすれば、外部から抑制するものがないかぎり、われわれの感性そのものはおよそ苦痛の源泉でしかありえない。というのは、かぎりなき欲望というものは、そもそもその意味からして、満たされるはずのないものであり、この飽くことを知らないということは、病的性質の一徴候とみなすことができるからである。限界を画すものがない以上、欲望はつねに、そして無際限に、みずからの按配した手段をこえてしまう。こうなると、なにものもその欲望を和らげてはくれまい。やみがたい渇きは、つねに新たにおそってくる責苦である。




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