2009年4月26日日曜日

ランドマーク / 吉田修一



犬飼がふと思い出したのは、サハラ砂漠が広がるモータニアという国で、水汲み奴隷として働かされている若い男の言葉だった。本にはもちろんバンコクで強制売春をさせられている女の子たちの悲惨な生活も書かれていたのに、どうしてその地域の複合ビルの打ち合わせをしながら、アフリカのことを思い出したのかは分からない。
『ビラールと申します。』
その項には、そういうタイトルがつけられていた。奴隷にはたいてい、ひとつしか名前がないらしかった。そして、男の奴隷の名前はたいていビラールなのだという。
「ぼくがこの仕事をしているのは、お金のためじゃない、ご主人様のお役に立ちたいからなんだ」と彼は言う。

もちろんしゃべったことが、「主人」の耳に入るのを気遣っての言葉だ。ただ、このビラールは首都に来てから、いろいろと知恵もついていて、以前は想像もしなかった逃亡奴隷や、解放奴隷を支援する組織があることも、ぼんやりと見当がついている。
「ぼくがほんとうにほしいのは、給料さ。自分の仕事に見合った、決まった額のお金がほしいんだ」
世の中には給料をもらって働いている人がいることや、その人が夜は自宅に帰れることも、今ではぼんやりと知っている。

「だけど、給料をくださいってご主人様に頼んだら、ご主人様は、今のやり方がいいんだっておっしゃるんだ。ご主人様が食べ物をくださるんだし、ときにはお小遣いまでいただけるんだから、ぼくはご主人様の家にいるのが当然だってーーー。どうすればいいんだろう、ぼくは」

ーーーぼんやりと見当がついている。ーーー今ではぼんやりと知っている。

ふと自分の口が動いたような気がして、犬飼は我に返った。顔を上げると、さっきまでバンコクの地図を覗き込んでいたいくつもの顔が、まっすぐにこちらに向けられている。
「なんか言ったか?」と、首を傾げる部長に訊かれた。
「あ、いえ」と、犬飼は慌てて首をふる。




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