2009年6月3日水曜日

官能小説家 / 高橋源一郎



夏子は眠りと覚醒の狭間をゆっくりと渡ろうとしていた。それから不意にたぎるような哀しみがやって来た。きりきりと痛むような、けれども定かではない記憶が、遥か下の方で蠢いていた。ああ。夏子は声にならぬ声をあげた。イヤ。夏子は叫ぼうとした。なにかが夏子を連れ去ろうとしていた。どうすれば人の声の聞こえない物の音のしない静かなところに行けるだろうつまらないくだらない面白くない情けない哀しい心細いこうやってあたしは生きてゆくのかこんなにも寂しいのに。その時、夏子の耳にか細い声の歌が聞こえた。渡るにゃ怖し渡らねば。それは夏子自身が歌う声だった。

そうだ。あたしは渡らなければならないのだ。そう決めたのだ。するだけのことはしよう。あたしはなんのために生まれてきたのか、なにができるのか、それを知りたい。そう思ったのだ。暖かいところでまどろみ、無心に生きることがどれほど心やすらぐことであっても、そこから身を離そう。苦しいのはあたしだけじゃない。そう思った。誰かがいってた。なんのためにと問うてはいけないのだ。

その時、凍えるような寒さが躯の芯からやって来た。またここに戻ってきてしまった。夏子はそう思った。そこはシーツの中ではなかった。水に濡れた冷たいタイルの床に座りこみ、それよりさらに冷たい便座を抱きかかえるようにして、夏子は少しずつ目を覚ましていった。頭は重く、何度も繰り返し吐いたせいで喉が痛かった。

書かなくちゃ。いま、夏子が考えることができるのはそれだけだった。ほんの少し書くことを覚えただけなのにもうこんなに苦しかった。苦しいよ、苦しいよ。夏子は、桃水に何度も訴えた。すると、桃水は、それは君が正しい道を進んでいる証拠なのだと答えるのだった。書くことは苦しい、書くことは異常だ、誰もなにも書かなくても生きていける、なのに君は書こうとしている、君は狂いかけている、だったらもっと狂うのだ、もっともっと狂ってついに書くことが苦痛でなくなるまで。




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